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浅草と共に歩んで半世紀 ~浅草と台東館 ②~

2020.09.10

台東館のある場所…浅草寺との関係


”粋でイナセな”という江戸時代の美意識に加え、”宵ごしの銭は持たぬ”という気っ風の良さや、"火事と喧嘩は江戸の花"という威勢の良さを表す言葉に象徴されるような、下町文化の中心地 ”浅草”。


浅草寺の門前町として栄えてきたこの地に建つ台東館は、浅草寺東門で国の重要文化財でもある「二天門」の前方にあります。この場所は江戸時代末期の地図をみると、金剛院、覚善院、法善院、妙音院、顕松院という浅草寺の寺中寺院がありました。これらの寺院は今でも場所を変えて存続しています。 


その後、関東大震災や東京大空襲による被災を経て、戦後は台東区の花川戸公園となりました。ちなみに「二天門」は、これらの災火にも屈せず焼け残った貴重な建築物で、浅草神社の社殿と同じ慶安2(1649)年に建てられ、上野寛永寺にある四代将軍家綱の霊廟から運ばれた持国天と増長天が収められています。すぐそばには安永6(1777)年に「臨時連中」という浅草寺の消防組織から寄進された石製の大きな手水鉢もあり、江戸時代の名残りを感じることができます。


この辺りは戦前から履物問屋街発祥の地といわれ、毎年12月には、靴や履物、財布、バック、小物、アクセサリーなどが安価で販売される「花川戸はきだおれ市」が行われています。傘や文具、日用品も並ぶそうで、”掘り出し物が見つかる!”と大勢の買い物客で賑わいます。戦前の最盛期には、下駄や草履などを扱う問屋が約250軒も建ち並び、布製ゴム底靴の中心地として栄えてきたそうです。


下記の写真が撮影された頃は日本の高度成長期の真っただ中でしたが、その後この地に建つ台東館の建設には多くの皆様のご苦労がありました。

上の写真は、台東館が建つ前の有料駐車場として使われていた1960年(S35)頃の花川戸公園。

当時の街の様子、バスや車の形もレトロで懐かしい。

次回は、いよいよこの場所における台東館建設に向けてのお話です。掲載は9月24日(木)を予定しています。


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