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浅草と共に歩んで半世紀 ~台東館設立のルーツとは~

2020.10.08

台東館は第二産業会館…今はなき大手町館


展示面積として約11.5万㎡ある東京ビッグサイトとほぼ同規模の会場が、明治時代にすでにあったことはご存知でしょうか?


西南戦争の最中、 1877年(M10)8月、初代内務卿 大久保利通の提案により、約10万㎡の上野公園に会場をつくり「第一回 内国勧業博覧会」が催されました。1873年のウィーン万博を手本としたこのイベントは、国内の産業発展を促進し、魅力ある輸出品目育成を目的とし、欧米からの新技術と日本の在来技術の出会いの場となる産業奨励会との位置づけで、全国から84,000点を超える出品点数を集めて開催されたそうです。


これをきっかけにして、1878年(M11)に東京府勧業課が知事に伺いを立て、千代田区大手町にあったとされる第一勧工場内に商品の「陳列所」を設けました。この陳列所が都における展示会場の始まりで、その後、販売成績が良いため、「東京府商工奨励館」が建設されました。


戦後は、「東京貿易館」として日本橋三越に間借りしていた時期もありましたが、都議会がその必要性を認め、1954年(S29)10月15日に総工費9億892万円で「東京都立産業会館大手町館」が設立されました。(1980年(S55)閉館)


(以下の写真)昭和30年頃の東京都立産業会館大手町館


大手町館は、2F~6Fまでの4フロア、約5785㎡の展示室を有し、9時~17時の料金が1フロア82,000円/日で、現在の約1/4の料金設定でした。1966年(S41年)には、利用申込みがピークとなり、年間340日を超える稼働となりました。


日本の急速な経済成長のもと、見本市や展示会は、規模においても質においても益々拡大し、さらに複雑化する傾向が顕著となりました。東京都は大手町館だけでは需要に対応できないと判断し、第二産業会館として台東館設立の必要性を認めました。


以下の当時の案内図をみると大手町館は、都内随一のビジネス街にあったことがわかります。

次回は、いよいよ台東館の苦難の着工が始まるお話となります。掲載は10月22日(木)を予定しています。


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